1、地図に見る押上界隈の変遷 その1

図,錬隠僑闇前の1856(安政3)年発行江戸切絵図「隅田川向島絵図」の抜粋です。元の絵図は南が上になっていたので、判りやすく北を上にしました。

160年前の1856(安政3)年発行江戸切絵図「隅田川向島絵図」の抜粋です。''

 地図の左辺の川は隅田川です。隅田川から分岐し、図の中央部を右下に向かって流れる川は古川といい、現在は埋め立てられている旧コヤマ脇の細い道です。  ほぼ中央を上から下(南北)に流れる川は曳舟川で、現在は埋め立てられた曳舟川通りです。下辺の隅田川から分岐して少々曲がりくねっている川は北十間川です。古川・曳舟川は共にこの北十間川に流入しています。この3本の川に囲まれた地のほぼ南側半分が現在の押上一丁目になります。当時の地名は請地村・押上村、古川を挟んで吾嬬村でした。
 地図に記されている様に、このあたり一帯は田畑・湿地帯で、のどかな田園風景が広がっていました。請地村・吾嬬村の総鎮守「飛木稲荷神社」や別当寺であった円通寺の境内が、隣接して正円寺・高木神社の境内が古川に沿って曳舟川東岸まで記されています。因みに押上村の総鎮守(牛島神社)は隅田川沿いに「牛の御前」と記されています。
 地名の「請地」は、この辺りが昔、東京湾内奥の海上に浮かぶ洲であったことから「浮き地」と呼ばれこれが訛ったのではないかと言われています。また「押上」の地名は、この辺りが東京湾奥の海岸線にあたり、堆積物が「押し上げられた所」が由来という説があります。
 曳舟川を挟んで秋葉神社の広い境内が曳舟川西岸に記されています。江戸時代には幕府をはじめ大奥・諸大名や市中の多く人々の崇敬をうけて大層賑っていたそうです。墨堤(ぼくてい/隅田川の向島側の堤)に江戸名所の桜並木が記されています。
 隅田川と北十間川の分岐点(図,硫縞婪)にある広い土地「水戸殿」(白い部分)は「水戸徳川家の下屋敷」で、現在の言問橋南の広い隅田公園です。現在は公園沿いに東武スカイツリー線の高架が通っています。

図△錬隠苅闇前の1875(明治8)年発行「東京区分絵図」から押上界隈を抜粋しました。
 明治元年に向島地区(南葛飾郡)が東京府に移管されましたが、東京の郊外であったこの地は、明治に入っても、20二〇年前の絵図と殆んど変わっておらず、まだ、のどかな田園地帯であったことがうかがわれます。北十間川の北側は(東京府)南葛飾郡請地村・押上村・中ノ郷村・小梅村・須崎村・寺島村等の地名が記されています。

140年前の1875(明治8)年発行「東京区分絵図」から押上界隈を抜粋しました。''

 東京府は明治一一年に一五区六郡を定め、本所区が成立しました。この頃までの、この界隈の主要幹線道路は曳舟川西側の土手通りで、四つ木街道、或は裏水戸街道(当時の水戸街道は千住を起点として、亀有・新宿経由で松戸方面へ)とも呼ばれていました。曳舟川土手通りは小梅〜北十間川沿い(水戸邸脇)〜枕橋〜吾妻橋を経由し、東京中心部と葛飾・千葉・茨城方面を繋ぐ交通の要路でした。古川の北側土手通り(新あずま通り)は、吾嬬神社・亀戸天神に通じる参詣道で「吾嬬道」とも呼ばれていました。秋葉神社の境内が図,鉾罎拔肪爾剖垢記されているのはなぜでしょう?

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