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4.トロリーバスと押上駅付近の変遷

 1952(昭和27)年5月、上野公園?押上駅前経由?今井橋間に都営のトロリーバスが開通しました(写真)。
 経済発展と共に交通量が増大し、都内の交通機関の拡充が求められていました。しかし、当時はガソリンが不足しており、価格も高価であったため、まだバスの普及は困難でした。トロリーバスは都電にくらべて、レールの敷設が不要であり、容易に施工が出来たこともあったため、都電に替っての普及が期待されました。
 上野公園〜今井橋間の開通に続いて、1957(昭和32)年1月、明治通りを走る池袋駅〜福神橋経由?亀戸駅間が開通します。料金は全線15円でしたが値上げが重なり昭和42年には30円になりました。(「墨田区の昭和史」より)

押上駅前交差点のトロリーバス''

 その後、ガソリンも充足し、大型バスの普及により、都電の廃止と共に、1968(昭和43)年9月、トロリーバスは廃止されました。わずか16年間という短かい期間の運行でした。
 トロリーバス・都電が廃止された同じ年の1968(昭和43)年11月、都営地下鉄浅草線が全線開通しました。
 これを遡ること8年前、1960(昭和35)年12月に都営地下鉄浅草線の一部、押上〜浅草橋間が先に開通すると、押上駅舎及び周辺の様子は一変します。 その変貌の様子を紹介します。

 戦後建てられた京成押上の旧駅舎は撤去され地下ホームに対応した施設になりました。また、地上には京成本社が建設されました(写真)。1967(昭和42)年のことです。

昭和40年頃の押上駅と京成本社''

 次に北十間川に架かる京成橋の東南岸から押上1丁目側の押上駅・京成橋方面を撮影した3枚の写真を紹介します。
 1957(昭和32)年頃、1987(総和62)年頃、そして現在の写真です。比較して、その変化をたどってみましょう。

 写真は、1957(昭和32)年頃の写真です。都営地下鉄浅草線が開通するまで、押上駅は、戦後まもなく建てられたバラック建ての駅舎でした。京成橋の欄干もまだ木造ではなかったかと記憶しています。写真では北十間川には木造の貨物船が係留されています。伝馬船(てんません)と言いますが、私たちは訛って「でんません」と言っていました。今では見られない光景です。この頃までは、船は貨物の輸送機関としてまだ活躍していたことがわかります。

北十間川には木造の貨物船''

 写真い蓮■隠坑牽(昭和62)年頃の写真です。京成本社(1967年完成)と向い側の角に第一勧業銀行押上支店の建物が写っています。今となっては懐かしい写真です。 1971(昭和46)年に第一銀行と日本勧業銀行が合併し第一勧業銀行になりました。そして、一挙に預金残高日本一の銀行になりました。現在の預金残高日本一は「三菱東京UFJ銀行」です。

京成本社と向い側の角に第一勧業銀行押上支店''


また、北十間川の護岸が整備されつつある様子がわかります。この頃になると、公害防止法の強化により河水の汚れも徐々に改善されてきました。

 写真イ蓮■横娃隠(平成26)年11月に撮影した写真です。東京スカイツリーが完成し、京成橋がモダンな永久橋になりました。また、角の銀行はマンションに変わっており、京成本社のビルは解体されました。跡地の工事中クレーンの奥には、スカイツリーの完成と同時に新しく建てられた東武本社のビルが見えます。現在では、この工事は進んで、東武本社は見えなくなりました。完成すると13階建てのホテルとスーパーマーケットが入る高層ビルになります。
 北十間川はしっかりとした護岸に整備され、親水テラスも施され、川には観光用の舟も運行されつつあります。
 京成橋と東武橋間は「おしなり公園」となり綺麗な景観に変わりました。

東京スカイツリーとニューアルした京成橋''

 わずか半世紀足らずの間に、私たちの町の景観は大きく変貌しました。


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