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8.東京大空襲後の惨状

 前号で紹介しましたが、東京大空襲により、墨田区は約75%以上が焼失、特に南半分の本所区は約96%(言問小学校周辺と小梅小学校が残った)、北半分の向島区は約60%が焼けてしまいました。次の地図で見てみましょう。赤部分が焼失した場所です。(東京大空襲資料センター編)

終戦直後の墨田区 押上界隈''

 図中の青丸印は東武押上踏切の位置です。押上界隈、東武亀戸線以南は殆ど焼失しました。東武亀戸線を境に京島側は明治通りまで焼け残った様子が判ります。

 私たち家族は焼け出されてしまったので、しばらくは千葉県富浦町(現南房総市)の伯母の嫁ぎ先・母の実家(江戸川区平井)やその近くの借家等、雨露を凌ぐために転々としました。この間、東京にただ一人残った祖父は2か月後の5月に病死しました。

 東京大空襲から五か月後の8月15日、終戦を迎え空襲の恐怖から解放されました。この年の秋に、元の家があった曳舟川通り沿いの現在の場所に、小さなバラックの家を建てました。半年ぶりに狭いながらも我が家で過ごすことが出来ました。
 当時、まだ曳舟川は埋立てられておらず、沿岸の工場や民家の焼失で川への排水の流入がなく、川底まで見えるほど澄んでいました。川底には空襲の火災から守るために投げ込まれた自転車や家具等が沈んでいました。
 周りは焼け野原です。まだ、疎開先から戻ってきた家はほとんどありませんでした。障害物がなかったので、西の方を見ると、焼け残った松屋デパートと、その隣に遠く富士山がくっきりと見えました。

 食べ物がなかったので、母は大変な思いをして千葉県習志野や市川の在にある農家に買出しに行きました。早朝、まだ薄暗い中、眠い目をこすりながら、弟を背負った母に連れられ、歩いて両国駅まで行き、一番電車で出かけたことを覚えています。
 その後に、東京に戻ってきた多くの人たちも、私たちと同じように食糧はじめ大変な苦労をして毎日生活したことと思います。

 父が復員し帰ってきてからは、家の周りのわずかな空き地に畑を造りました。トウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・トマト・ナス・キュウリ・カボチャなどを植えて、収穫したことを思い出します。

 話は遡りますが、アメリカ軍の爆撃機による空襲が頻繁になった昭和19(1944)年、行政は子供たちの命を空襲から守るために、その年の8月、「学童疎開」をさせました。学童疎開とは、都会の小学3年生から6年生までの子供たちを、空襲の心配がない、千葉県や茨城県等地方の旅館やお寺の本堂を借りて集団で生活させるのです。学校の授業もそこで行われました。

 昭和20年3月上旬、6年生の多くは卒業式のために、東京に戻ってきました。3月8日に帰ってきた6年生たちもいました。しかし、悲しいことに翌日の東京大空襲に遭遇し、多くの6年生が焼死しました。まるで空襲で命を落とすために東京に帰ってきた様な悲惨な事態でした。

 一方、疎開先に残っていた3年生から5年生の子供たちの命は救われました。しかし、更に悲しい事態が発生しました。 戦争が終って、子供たちは疎開先から、東京に戻ってくると、東京は空襲で焼け野原です。両親を亡くし家も焼かれ、行く所が無なくなり孤児(みなしご)になってしまった子供たちが、沢山うまれてしまいました。「戦災孤児」です。特に地下鉄の上野駅からJR上野駅に通じる長い地下道は、寒さや雨露を凌ぐことが出来るので、大人たちに混じって、たくさんの戦災孤児たちがいました。

 私は用事で母に連れられて何度か上野駅の地下道を通りました。両手で膝を抱えながら、冷たい床に直に座っていた沢山の孤児たちを覚えています。彼らには何の罪もないのに「浮浪児」とも呼ばれていました。

 戦後、NHKが菊田和夫原作で戦災孤児たちの共同生活を描いた「鐘の鳴る丘」と言う番組を放送しました。年配の方々はご記憶にあることと思います。主題歌「とんがり帽子」(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)が川田孝子の歌声で「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン・・・」が流れると私たち子供はラジオの前に集まり耳を傾けました。

 次の写真はその後の映画の舞台になった戦災孤児たちの厚生施設「鐘の鳴る丘集会所」です。元温泉旅館だった建物だそうで、長野県あずみの市に「市の有形文化財」として現存しています。(横井正男撮影)

鐘の鳴る丘集会所''

 戦争で生き残った大人たちは、苦労して苦労して私たち子供を育ててくれました。そのお蔭で私たちは元気な社会人に成長することができました。 戦災孤児になった多くの子供たちは、戦後の苦難を乗り越え、やがて成人し懸命に生き抜いたことと思います。

 今でも世界のあちこちで戦争が起きています。そこでは、私たちが子供の頃に体験した様な、食べ物が不足し、ひもじい思いをして、不安な毎日を送っている子供たちが沢山います。親を亡くした子もいます。

 東京は半世紀以上前にこんな経験を経て今日に至りました。今の日本は、安全で食糧難の心配もなく「とっても幸せな世の中だ!」と思います、 「自分の家で、家族と安心して暮らせる、  毎日、学校で勉強し、友だちと仲良く遊べる」こんな当たり前と思うことが、実はとても幸せなことなのだとつくづく思います。

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