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10.関東大震災 2

後藤新平と復興計画
 震災後の「復興」は震災前の姿に戻す「復旧」ではなく、抜本的な都市改造を目指しました。この計画を立案し推進した中心人物が、震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平です。主な復興事業は次の通りです。

 <区画整理と幹線道路>
 この地域では、江戸時代に施された本所区内の碁盤目状の道路網の促進と現在の向島一3丁目の区画整理が行われました。
 また、幹線道路として新たに水戸街道・言問通り・明治通り・浅草通り・桜橋通り・押上通り(現四つ目通り)・小梅通り・蔵前通り・京葉道路等ができました。道路幅50mもある大きな「昭和通り」(中央・台東区)もこの時の復興事業で出来ました。

 <道路拡幅工事と舗装化>
 本所地区では既存道路の拡幅、特に清澄通り・三つ目通り・四つ目通りなどの幹線を大幅に拡幅しました。その結果、新設の道路と合せると、東京の道路面積は震災前に比べ44%も増えました。
 また、震災前の道路は95%が砂利道で、舗装道路はわずか5%でしたが、震災後は、舗装道路が72%と大幅に増え、砂利道は28%に減少しました。

 <大公園の新設>
 震災直後に、被害の状況を調べた結果、火災の延焼は緑地により食い止められ、広い避難場所で被害が少なかったことが判明しました。その結果、3つの広い大公園を計画、隅田公園・錦糸公園・浜町公園が新しく造られました。
 特に隅田公園は日本初の「リバーサイドパーク」(河岸公園)といわれています。 この公園化には、明治以降の日本の造林学・造園学の基礎を築いた本多静六という人が後藤新平に乞われて、計画に関わりました。因みに「日比谷公園」や「明治神宮」も本多静六が設計しました。

 <隅田川架橋の耐震化と増設>
 復興事業で隅田川に震災以前にすでに架かっていた両国橋・吾妻橋・厩橋・白鬚橋が現在の強固な耐震構造の橋に架け替えられました。更に、新しく蔵前橋・駒形橋・言問橋が架けられました。これに伴い、江戸時代から活躍していた「竹屋の渡し」や「駒形の渡し」等が廃止されました。

 <同潤会アパート>
 被災者向けの集合住宅を鉄筋コンクリート造りで東京に14棟、横浜に2棟建設しました。最初に完成したのが「同潤会・中之郷アパートメントハウス」(押上2丁目、現「セトル中之郷」の場所)です。1926(大正15年)にわずか3年足らずで完成しました。次いで「柳島」が完成しました。

 <耐震構造建築の言問小学校が開校>
 私の母校である言問小学校は鉄筋コンクリート造りの耐震モデル校舎として1937(昭和12年)2月に完成し開校しました。開校直後には全国から学校関係者がたくさん視察に来校したそうです。近年、耐震補強工事は施しましたが、現在も創建当時のままの姿の校舎が活躍しています。

 <瓦礫(ガレキ)の処理>
地震により発生した瓦礫は、東京では江戸城の外堀の埋立に使用しました。その結果出来上がったのが現在の「外堀通り」です。外堀通りは90年後の自動車社会の現在、昭和通りと共に都内の基幹道路として大活躍中です。
また、横浜市の瓦礫は海の埋立てに使用しました。そして造成し山下公園を完成開園させました。「日本初の臨海公園」といわれ、現在も市民の憩いの場として活躍しています。
当時は瓦礫を被災地域外に持ち出すことなく活用し、現在でも活躍している施設を建造したことに頭が下がります。また、80年を経た現在でもなお中心的に活躍している当時の施設が多くあります。
 9月1日は「防災の日」です。「台風高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」記念の日ですが、関東大震災発生の日に因んで1960(昭和35)年に制定されました。


創建当時のままの言問小学校''
創建当時のままの言問小学校(横井正男撮影)

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