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12.昔、他にも駅があった

 新あずま通りを北上すると、道は源川米店の先で京成押上線に突当り、右折すると踏切があります。踏切を渡り東武の高架をくぐるとその先で右にカーブして、飛木稲荷神社への道に繋がっています。
 しかし、およそ60年前迄は今の突当った所が踏切で、真直ぐに飛木稲荷神社への道に繋がっていました。
 この道は、1902(明治35)年に東武線が開通する以前からありました。江戸時代には、隅田川寺島の渡し(首都高速道路向島入口付近)から福神橋際にある吾嬬の杜(吾嬬神社)へ通じた道で、大変古い道なのです。

 1960(昭和35)年に京成押上線と都営地下鉄浅草線が相互乗り入れになり、押上駅が地下ホームになりました。そのために、この踏切付近から京成線のレールが地下に入りはじめることになり、踏切を京成曳舟駅側にずらしました。その結果、現在のようになったのです。
 2003(平成15)年に東武伊勢崎線(現在はスカイツリー線)は、地下鉄半蔵門線と相互乗り入れする以前は、高架ではなく地上を走っていたので、この踏切と桜橋通りの押上二号踏切は東武伊勢崎線・京成押上線が通る「開かずの踏切」でした。

 ところで、この東武線と京成線が最も接近するこの両踏切の間に1931(昭和6)年に東武伊勢崎線「請地駅」が、翌年には京成押上線「請地駅」が乗換駅として開業しました。今はその痕跡が全くありませんが・・・。
 次の「地図 廚錬隠坑苅(昭和16)年の押上1丁目仲町会界隈を旧本所区の地図から抜粋しました。

1941(昭和16)年の押上1丁目仲町会界隈を旧本所区の地図''

 桜橋通りの二号踏切の曳舟駅側に両方の「請地駅」(丸印)が記されています。
 しかし、この両請地駅は東京大空襲に遭い、1946(昭和21)年に営業を休止、そのまま1949(昭和24)年には廃止されました。駅の開業期間はわずか10数年でした。私は、子供の頃に見た焼け残った請地駅ホームを覚えています。

「写真 廚蓮京成電鉄が京成曳舟駅

京成電鉄が京成曳舟駅''

 付近の高架化工事期間中、現場に掲示してあった懐かしい「請地駅ホーム駅付近の写真」です。右側のレールが東武伊勢崎線、左側のレールは京成押上線ですが、現在では、京成が地下に入ったこともありこの景観を見ることはできません。
 写真の前方に見える踏切は「押上2号踏切」で、踏切の先が左に大きくカーブして直ぐの所に終点の押上駅がありました。正面の奥が、東京スカイツリーが建つ前にあったコンクリート工場の施設でした。

 もう一つ、今はなくなってしまいましたが、70年前まで私たちの町の近くにあった駅を紹介します。それは押上3丁目(当時の地名は吾嬬町西1丁目)にあった東武亀戸線「虎橋通り駅」です。
 押上通り(旧山口ガーデン通り、現四ツ目通り)にある東武亀戸線踏切(亀戸線1号踏切)の一つ小村井駅寄りにある小さい踏切(亀戸線2号踏切)の先に「虎橋通り駅」がありました。この2号踏切を通る細い道を「虎橋通り」と呼でいました。

 次の「地図◆廚錬隠坑苅(昭和16)年の押上3丁目界隈を旧向島区の地図から抜粋しました。「虎橋通り駅」と「請地駅」の両駅(丸印)が記されています。

虎橋通り駅と請地駅''

 その頃は、踏切の両側は商店で賑わい、私の両親や近所のひとたちから「虎橋通り商店街」だったと聴いています。
 しかし、この辺りも駅を含め線路を境に押上3丁目側は東京大空襲で焼失し、「虎橋通り駅」はその直後に廃止されました。線路の京島側は戦災を免れました。

 この道は、今では商店がなくなり人通りも少ない細い路地になってしまいましたが、「押上通り(ガーデン通り)」が出来るまでは、押上駅に通じる主要の道路だったそうです。

 「写真◆廚蓮虎橋通りの亀戸線2号踏切から小村井駅方面を見た様子です。 線路沿いにプラットホームの礎石らしき痕跡が残っています。

虎橋通りの亀戸線2号踏切から小村井駅方面''

 今回は、昔、押上駅の他にもあった「請地駅」と「虎橋通り駅」を紹介しました。

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