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13. 墨堤(ぼくてい)の桜

私たちの町に隣接する向島・隅田川沿いの「隅田公園」は、東都有数の桜の名所です。 その隅田川の墨田区側の堤(つつみ・土手)を特に「墨堤(ぼくてい)」と呼びます。今回はこの「墨堤の桜」についてご紹介します。
この墨堤が築かれたのは大変古く、室町時代の後期1500年代中頃で、隅田(現在の堤通・墨田)、寺島(東向島・堤通)、須崎(向島)、小梅(向島)の四か村にわたる二千百余間(実測約3)が築造されました。当時は、墨堤のうち寺島(現在の堤通一丁目)以北を「隅田堤」、須崎(同向島5丁目)以南を「牛島堤」と区別して呼んでいたそうです (「隅田川とその両岸」より)。台東区の日本堤(にほんづつみ)も同じ頃、共に下流域の水害対策として造られました。
 墨堤の桜は、シーズンには花見客で大変賑わいます。この桜並木の歴史は江戸時代に遡ります。徳川幕府四代将軍家綱が、1650年代の頃、常陸の国・桜川村(現在の茨城県稲敷市桜川)から桜の苗木を取寄せ、将軍の「隅田川御殿」(墨田区最北部の元鐘ヶ淵紡績工場)近くの旧木母寺(堤通2丁目)辺りに植えたのが始まりとされています。  1717(享保2)年、八代将軍吉宗は木母寺から南の墨堤に桜100本を、更に9年後、桜・柳・桃を各150本植えます。この目的の一つは、庶民のための行楽地造りです。同じ目的で飛鳥山公園や八ツ山橋も造りました。二つ目は、大勢の花見客の往来で、墨堤の地固めを図ることでした。
以来1854(安政元)年までに地域の篤志家の協力も得て、700本の桜が三囲神社まで植えられました。
 この間、大洪水での流失等がありましたが、多くの有志の協力があり、補植し江戸の「桜の名所」としての地位を確立します。
 写真,鰐声初期の「墨堤の桜並木」の様子です(日本カメラ博物館所蔵)

墨堤の桜並木''

 三囲神社裏付近から上流方向の眺めです。現在の首都高速道路下の隅田公園・墨堤の桜並木の景観からは想像できませんね。
 「墨堤の桜の由来」を詳しく記した「墨堤植桜の碑」が名物和菓子の店「桜餅」の左隣り、言問団子向い側の公園内にあります。1887(明治20)年に建立されました。この碑の題字(篆額/てんがく)は郷土の偉人・榎本武揚の筆のよるものです。散歩にお出掛けの機会にでもご覧下さい。
 明治時代の牛島神社は桜橋近くの長命寺裏で、名物「桜餅」の店が隣接していました。「牛嶋神社旧址」の碑が弘福寺裏の土手下に現存しています。
図,鰐声初期、牛島神社付近のお花見の賑わいの様子を描いたものです。

牛島神社付近のお花見の賑わい''

図,虜乎蔀羆の下部に牛島神社の入口の目印である「常夜灯」が描かれています。

常夜灯''

写真△録洵,防舛れたていた当時の常夜灯の様子です(日本カメラ博物館所蔵)。この常夜灯は1871(明治4)年に建立、正式名は「石造(いしづくり)墨堤(ぼくてい)永代(えいたい)常夜灯(じょうやとう)」だそうです。
 牛島神社は1923(大正12)年9月1日の関東大震災で社殿を焼失、震災復興計画で現在の言問橋東に完成、遷座されました。そしてこの「常夜灯」だけが震災前のままの位置(桜橋のそば)にあります(写真)。

常夜灯''

 言問橋東にある牛島神社の南側一帯の日本庭園は、1693(元禄6)年に幕府から拝領された旧水戸徳川家の下屋敷跡です(因みに、上屋敷は現在の後楽園及び後楽園球場を含めた付近一帯です)。桜並木は、徳川家により徳川家屋敷の正門があった「枕橋」(現在の墨田区役所そば)まで延長して植樹されました。明治初期の1880年頃のことです。こうして、墨堤の桜並木の魅力は一段と増し、現在に至っています。
 次回は、隅田公園の歴史を紹介します。

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