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19.北十間川

私たちの町押上1丁目の南を隅田川から旧中川まで東西約3劼砲錣燭衫れている「北十間川」の歴史を紐解いてみましょう。
この川は、今から360年前の明暦3(1657)年に発生した江戸時代最大の大火「明暦振袖火事」後に本所地区開拓の一環として開削された人工の川です。堅川・大横川・横十間川・南割り下水・北割り下水、そして前号で紹介した曳舟川(本所上水)と共に造られました。初めは大火後の寛文3(1663)年に、大横川北端を起点として隅田川までの間を木材輸送の目的で開削されました。当初は「源森川」と呼ばれていましたが、川口に架かっていた水戸邸への橋が源平橋(げんべいばし)と呼ばれていたことから、「源兵衛堀」とも言われていました。
引き続き大横川から横十間川北端を結び旧中川までを完成させました。この川の名前は川幅が十間(約18m)あり、本所の北端を流れることから「北十間川」と呼び、農業用水として開削されました。(区史前史)
この頃の押上・柳島界隈は田園地帯でした。江戸時代末期の浮世絵画家安藤広重画「名所江戸百景」の中に北十間川と横十間川の交流点と柳島妙見堂・柳島橋を描いた版画「柳しま」(絵1)にのどかな田園風景の様子が描かれています。

江戸時代末期の浮世絵画家安藤広重画「名所江戸百景」の中に北十間川と横十間川の交流点と柳島妙見堂・柳島橋を描いた版画「柳しま」''

絵の中央左から右下方への流れが北十間川、右下の橋が柳島橋で、そこから左下方への流れが横十間川です。橋の袂の建物は当時有名だった橋本家という料理屋で、その左側の杜が柳島妙見堂・法性寺です。
また、この絵の奥一帯(北十間川の向う側)が現在の我が町・押上1・3丁目になります。当時は南葛飾群請地村です。また、絵の中央辺りに十間橋が後年になった架けられたことになります。遠方の山は筑波山です。
次の「図1」は安政3(1856)年の尾張屋版「隅田川向島絵図」の抜粋です。「絵1」は絵図の中の➡印の位置(横十間川の右岸)から画いていることになります。

安政3(1856)年の尾張屋版「隅田川向島絵図」''

その後、大横川・北十間川は隅田川の増水時には頻繁(ひんぱん)に洪水が発生しました。これを防ぐために源森川東端に堰が設けられました。絵図でも源森川と北十間川は曳舟川が流入する付近が埋め立てられて分断されています。この後、現在の京成橋辺りまで順次埋め戻されました。
絵図には北十間川に中居堀・古川(旧本所区と向島区の境界の埋立てた小路)が流入している様子も描かれています。
次の「図2」は明治28年の地図です。

明治28年の地図''

東武鉄道の曳舟?業平橋間の開通は明治41年、京成電鉄押上線は大正元年開通のため共に軌道は描かれていません。現在の東武橋?京成橋間は川ではなかったことが判ります。地図にある様に住所番地が記されています。京成橋の上にあたる住所で父親が生まれたという人も地元に居りました。
次の「図3」は明治四四年の地図です。東武橋?京成橋間はこの年に再度開削を終え、源森川と北十間川は再び接続されました。地図上には、まだ「源森川」と記されています。「北十間川」の名前になるのはこの後のことです。東武鉄道は開通していますが、京成はこの翌年の大正元年に開通します。東武橋・京成橋もまだ無く、京成橋の西隣付近に「押上橋」のみが架かっています。
この橋の道は東武伊勢崎線第一踏切(現在は廃止されている)を経て曳舟川に架かる七本松橋に繋がっています。
隅田川と中川が繋がったことで、途中にある東武業平橋駅では鉄道貨物の輸送が水運と連携して行えるために、貨物船引き込

明治44年の地図''

み用のドックが開削されています。「東武橋」はこの頃、ドックを横切る道路の橋名でした。北十間川は墨東地区の物流拠点の一つとして大いに活躍しました。戦後、役目を終えたドックは廃止されました。
1953(昭和28)年には埋めててられたドック跡に日立コンクリート押上工場が建設され(写真)、ビル建設・道路拡充など首都圏の戦後復興に大いに貢献しました。この工場は2008(平成20)年にスカイツリ建設計画に伴い閉鎖されました。

北十間川沿いの日立コンクリート工場 (昭和29年 松本弘氏撮影))''

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