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3.地図に見る押上界隈の変遷 その2 続き


 戦後、都電の終点が柳島車庫から福神橋まで、向島須崎町から寺島広小路(後に東向島広小路)までそれぞれ延長されました。
 懐かしい思い出として、戦後まもなくの1952(昭和27)年に「トロリーバス」が上野公園〜今井橋間を押上駅前経由で開通しました。当時はレールがなく架線だけで走れる交通機関として都電に変わり活躍すると期待されましたが、その後、架線もいらない大型バスの普及により、1968(昭和43)年都電と共に廃止されてしまいました。16年間の短い命でした。この地図では曳舟川の埋め立て工事はまだ完了していません。

図Δ蓮◆屬垢澆瀬イドマップ」からの抜粋した現在の地図です。

すみだガイドマップ」からの抜粋した現在の地図''

 50年前の1964(昭和39)年に住居表示変更があり向島請地町の南部、向島押上町、そして吾嬬町西1丁目及び2丁目の一部が加わり新たに現在の「押上1丁目」になりました。
 また、向島請地町の北部は須崎町の南部と寺島2丁目の1部が加わり「向島4丁目」になりました。北十間川南側の業平橋は平川橋と共に「業平」に変わりました。
この様にしてこの界隈の歴史的な地名であった請地・中之郷・須崎・小梅・寺島・吾嬬・柳島等の名が完全に消えてしまいました。今になってみると実に残念なことであったと思います。この頃の写真は続編でご紹介します。
東京都は1967(昭和42)年に、40年余り活躍した都電を、王子〜早稲田間の一区間のみ残し全面廃止しました。
経済発展に伴い自動車が普及したことで、都電の路面運行が交通大渋滞の原因となったためです。併せて、バスの運行が進み、地下鉄が順次拡充され公共交通機関として代替できる様になりました。
 1971(昭和46)年の首都高速道路6号向島線・7号小松川線開通も一時期、幹線道路の渋滞緩和になりました。
46年前の1968(昭和53)年、京成電鉄押上駅で都営地下鉄浅草線と相互乗り入れすると、ターミナル駅であった地上の押上駅は地下ホームに変わりました。  1985(昭和60)年に桜橋が開通しました。
 2003(平成15)年東武鉄道は東京メトロ半蔵門線とつながり、新たに東武「押上駅」が新設され、京成・都営地下鉄との乗換駅となりました。乗降客は格段に増加し、押上・向島・業平地区は一段と交通の至便な街となりました。
 更に、2012(平成24)年、スカイツリー・そらまちがオープンし、地域経済は非常に苦戦を強いられていますが、押上界隈は驚愕の変貌を遂げました。
 曳舟川は55年前の1959(昭和29)年に都条例で廃止、埋め立てられて現在の「曳舟川通り」になり水戸街道のう回路として活躍しています。その結果、戦前に計画した小梅通りの開発は中止され、現在のような行き詰まり状態の道になりました。

3.昔の押上駅と都電

 終戦の1945(昭和20)年〜1965(昭和40)年頃の押上界隈のランドマークといえば、京成橋の正面にあったバラック建ての京成押上駅舎であったと思います。駅舎は戦後いち早く建てられました。昭和43(1968)年に京成が都営地下鉄浅草線と相互乗り入れが実現するまで、この駅舎ではなかったかと記憶しています。周囲には全く高い建物がありませんでした。

1957年頃の押上駅写真''


 押上駅は改札を通り、階段を降りるとホームです。ホームは何番線までありましたかねえ。金町行・成田行きが出ていました。
 朝のラッシュアワーには千葉県や江戸川・葛飾区方面からの通勤客や学生・高校生たちがどっと降り、改札口を目指して一斉に走り出します。今の様な自動改札ではなかったので構内は大混雑です。駅員の切符・定期券のチェックもソコソコに乗客の多くは京成橋を急ぎ足で渡り、都電の押上駅停留所に殺到していた光景を思い起こします。

1957年頃の押上駅構内写真''


 柳島車庫始発の都電は23番月島行と24番須田町行きの2系統が走っていました。狭い停留所のホームには乗客が乗り切れずはみ出るほど溢れていました。

当時の柳島車庫写真''


 都電の運転手や車掌さんは出来る限り乗客の積み残しがないようにとの配慮からか、満員の車内から溢れ出た乗客のためにドアを開けたままで走り出していました(写真)。当時は日本も発展途上国だったのですね。これが毎朝の都電ラッシュアワーの光景でした。よく事故や怪我人が出なかったと今思うと感心すると同時にぞっとします。

昭和25年頃23番月島行朝の都電写真''


 朝のラッシュアワーが過ぎると、千葉県近郊の農家の主婦が取れたての野菜を沿線の家庭に売り歩くいわゆる「かつぎ屋」の集団が乗ってきました。かつぎ屋の女性たちは(竹で四角く編んだ大きな)背負い籠に取れたての農作物を一杯詰め、更に大きな風呂敷に包んだ作物を籠の上に高く積み背負います。両手には、農産加工品の饅頭・お赤飯・漬物・等々を手提げ籠にこれまた一杯詰めて持ちます。総重量は何十キロの荷物を持っていたのでしょうか。子供心に「農家のおばさんたちは力持ちだなあ」と感心していました。今では、新鮮野菜の入手が容易になり、流通コストも安価になったため、いつの頃からか見かけなくなりました。



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