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9.関東大震災 1

 東京・墨田における明治期以降の3大災害、前回は「東京大空襲」を紹介しました。今回は「関東大震災」を紹介致します。

 関東大震災については、震災による犠牲者の納骨堂として建てられた「震災記念堂」、現在の「東京都慰霊堂」(都立横網町公園内)にある「復興記念館」に詳しく展示されています。今回はここで展示されている資料や「江戸博物館」及び「すみだ郷土文化資料館」などで得た内容も交えて震災の概況をご紹介します。

横網町公園内の復興記念館''

 大震災の概況

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東南部にマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。そしてこれまで例を見ないマグニチュード7以上の余震が併せて6回もありました。 最大震度7の地震発生時刻が昼食時間の直前であったため、東京では134か所から火災が発生しました。悪いことに、当日は台風が能登半島(石川県)に上陸しており、火災が発生すると折からの強風にあおられて東京はたちまち火の海になりました。

 震災直後の状況を記録写真で見ると、2011年3月11日の東日本大震災の惨状を思い起こします。東日本大震災は津波による被害が甚大であったのに対し、関東大震災は火災による甚大被害でした。 そのために死者・行方不明者の数は10万5千人を超えました。そのうち東京は7万人超(横浜市は2万6千人)、更に旧本所区(墨田区の南半分)だけで全体の半数にあたる5万4千人もの人が亡くなりました。 その95%以上が焼死でした。特に両国の陸軍被服廠跡(現横網町公園)だけで3万8千人もの焼死者がありました。地震発生直後、この広場に多くの人たちが避難しましたが、四方からの火災の延焼で逃げ場を失った結果の惨事でした。

 主な焼失地域は、左の写真地図のピンク色の部分です。現在の墨田区南部(本所区)・江東区西部(深川区)・台東区・千代田区(皇居周辺)・中央区の全域です。ここ押上地区も焼失しています。(復興記念館資料より)

焼失地域の地図''

 また明治になって耐火建築として進められてきた煉瓦造りの建物はこの地震でことごとく倒壊しました。そのために震災後は煉瓦造りの建物はなくなりました。

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