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11.「明治の大水害」と「荒川」

 東京・墨田における明治時代以降の3大災害のうち、前回までに「東京大空襲」と「関東大震災」を紹介しました。今回は明治時代末期に発生した「大水害」と「荒川」についてご紹介します。

 皆さん、東京の大河「荒川」が人工の川であることをご存知でしょうか? 自然に出来た川ではありません。洪水対策で造った放水路で、今から87七年前の1930(昭和5)年に完成しました。当初は「荒川放水路」という名称でした。

 この地域に古くからある隅田川・荒川(隅田川の上流)・綾瀬川・中川等は自然に出来た河川で、沢山の曲りくねりがあります。そのために、荒川放水路が造られる以前は、毎年、台風シーズンや集中豪雨の時に、至る所で堤防が決壊し、洪水が発生し、広い地域が頻繁に水害に遭いました。
    左の地図(国交省発行のカタログより転載)は放水路建設以前のものです。

放水路建設以前の荒川放水路''


 中央の曲りくねった大きな川は当時の隅田川(上流は荒川)です。右辺中央部の曲りくねった川は中川(現在の旧中川)です。

 江戸時代には、住民の安全確保のために、日本堤(台東区)や墨堤(ぼくてい)等の堤防が作られました(現在、その名残が地名として残っています)。しかし、これらは人口が多い下流域防災のためだけの堤防で、上流域の田園地域の洪水はなくなりませんでした。毎年のように発生する洪水の対策として1年中家の軒先に船を吊るしていた民家も数多くありました。

 荒川上流で隅田川が分流する赤羽「岩淵水門」(北区志茂)のそばにある国土交通省「荒川知水資料館」には、荒川放水路に関する様々な資料があります。ここの展示資料等の説明も交えて以下にご紹介します。

 1910(明治43)年8月に発生した大洪水は、現在の足立・葛飾・江戸川・台東・墨田・江東区等の広範な地域を襲い、未曾有の甚大な被害をもたらしました。浸水した家屋は27万戸超、被災者は150万人 (国土交通省資料より)に達しました。台東・墨田・江東区の下町は泥沼と化しました。

 明治政府は、洪水を無くすための「荒川放水路」建設に踏み切ります。大水害が発生した翌年の1911(明治44)年に着工しました。
 まず用地の買収を始め、1913(大正2)年から開削工事が始まりました。工事の総指揮者は青山士(あきら)技師です。青山技師は自費で渡米、日本人として唯一パナマ運河建設の工事に加わり、当時の世界最先端の土木技術を学んだそうです。
 1924 (大正13)年に荒川放水路と隅田川を繋ぐ「岩淵水門」が完成しました。 同水門は工事期間中に発生した関東大震災(大正12年)にも耐えて、その優れた建設技術は高い評価を受けました。
 着工後19年の工期を経て1930(昭和5)年に完成しました。

 こうしてできた新しい「荒川放水路」の総延長は22キロメートル、川幅は500メートルで隅田川の3倍以上あります。
 幅が広くて曲がりくねりが少ない緩やかな「荒川放水路」は、周囲の河川の流れを集めて東京湾へ大量の水を流出させることが出来ました。

 次の地図(国交省発行のカタログより転載)は荒川放水路が完成した後のものです。

完成後の荒川放水路''

 左上から右下への幅広い川は完成した「荒川放水路」です。中央を下方に流れている川が隅田川です。右辺上部の中川が中央で荒川放水路に流入しています。

 荒川放水路の完成により、この地域の洪水は大幅に減り、水害も減少しました。 しかし、戦後の1947(昭和22)年に来襲したキャサリン台風は、放水路計画を上回る豪雨をもたらしました。そして明治43年以来の大洪水が発生したのです。
 その後に伊勢湾台風等もあり、台風被害を教訓に高潮対策も施した「高潮堤防」を施工しました。河口から堀切橋までの間、約11キロメートルを1970(昭和45)年に完成させました。
 更に、昭和60年以降には「スーパー堤防(高規格堤防)」計画を策定し、順次完成させ、東都を水害から守っています。

 荒川放水路の呼称は1965(昭和40)年に現在の「荒川」と改称されました。 併せて「隅田川」の名称は東京湾の河口から岩淵水門までとなりました。

皆さん、「荒川知水資料館」には散策を兼ねて出掛けてみてはいかがでしょう。

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