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14.隅田公園

今回は「隅田公園」が出来た経緯をご紹介します。

隅田公園は、日本初の「リバーサイドパーク」(川辺の本格的公園)といわれており、隅田川沿い左岸(墨堤)の墨田区向島と右岸の台東区にまたがっています。
「押仲72号」の「関東大震災」の項でご紹介した通り、隅田公園は、1923(大正12)年9月に発生した関東大震災の復興事業の一つとしてとして、錦糸公園・浜町公園と共に1930(昭和5)年に完成しました。この時、震災で焼失した「水戸徳川家本邸」跡が取入れられ広大な隅田公園となりました。写真,亘躑兇龍瓩の当時の水戸徳川家本邸正門です。明治維新後には徳川家本邸となり「小梅邸」と呼ばれました。

1930(昭和5)年の水戸徳川家本邸正門''
写真)躑兇龍瓩の当時の水戸徳川家本邸正門
水戸徳川家は1923(大正12)年9月の関東大震災で御屋敷が全壊するまで代々ここに住んでいました。

写真△錬隠苅闇後の現在の正門跡です。門柱が若干移動されましたが、往時の水戸徳川邸の名残があります。

140年後の現在の正門跡''
写真■隠苅闇後の現在の正門跡

墨堤の桜が江戸の花見の名所であることは前号に紹介しました。
東京遷都後の1875(明治8)年4月4日、明治天皇は、平安時代から京都において毎年春に行われていた「宮中の花宴」を、京の宮中に劣らない墨堤「徳川家本邸」の桜を選び、「花宴」を催しました。 その時に明治天皇が詠まれた御歌「花くわし桜もあれと此やとの よゝのこゝろを我はとひけり」の歌碑が公園内の旧庭園跡にあります。この歌碑は隅田公園が開園した時に、徳川家が建立しました。

墨堤と隅田川を歌った日本を代表する世界的な名曲が、武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」です。
「春のうららの隅田川
 上り下りの船人が
 櫂(かい)の滴も花と散る
 眺めを何にたとうべき」
1900(明治33)年11月に発表されました。

1923(大正12)年の関東大震災により長命寺・弘福寺に隣接していた「牛島神社」が倒壊したため、新たに現在の言問橋際に遷座されました。
東京市の震災復興事業により「隅田公園」が大公園として拡充され、「言問橋」が新設されました。橋が昭和3年2月に完成すると、江戸時代から長い間、三囲神社前から対岸の今戸間で活躍していた「竹屋の渡し」が廃止されました。
同時期に着工した東武鉄道の業平橋駅から浅草までの延長工事が昭和6年に完成、同時に、枕橋と源森橋の間に「隅田公園駅」が開設されました(同駅は東京大空襲で焼失、昭和33年に廃止されました)。

昭和初期の隅田公園墨堤''
写真昭和初期の隅田公園墨堤

写真は1923(大正12)年の関東大震災後の復興事業により拡充された完成直後の昭和初期の隅田公園墨堤の様子です。桜の幼木が並んでいます。土手は低く、まだ高潮対策が施されていません。
  以前の墨堤桜の名所に復活するまでには、その後、長い年月がかかりました。

写真い(写真とほぼ同じ位置の)言問橋の上から撮影した現在の様子です。

言問橋の上から撮影した現在の墨堤''
写真じ什澆龍田公園墨堤

この間、太平洋戦争・東京大空襲、急速な戦後経済の発展による弊害―排気ガス汚染・隅田川の汚濁―公害等の環境悪化により、桜は壊滅の危機に瀕しました。
また、1905(明治38)年に始まった伝統の早慶レガッタ(ボートレース)や江戸時代8代将軍徳川吉宗の頃から続いていた両国川開き(花火大会)が中止になりました。その後、官民一体となった公害対策の取組が進み、空気は清浄化し、川の水も汚濁が改善されました。1978(昭和53)年には春の風物詩「早慶レガッタ」が、また、両国川開きは夏の風物詩「隅田川花火大会」として共に復活しました。
桜は二度の補植により以前の「墨堤の桜」に復活しました。満開の桜並木は、千鳥ヶ淵・上野公園・飛鳥山公園と共に再び東京を代表する桜の名所になりました。

戦後、今井橋〜押上経由〜上野公園間に開設されたトロリーバスが1968(昭和43)年までの16年間、言問橋の上を走っていました(写真ゾ硝楾飴畛1)。

言問橋''
写真ジ戚箒~
1971(昭和46)年、墨堤の桜並木の上には首都高速道路が開通し、今なお景観を損ねていることは、戦後の経済復興ためだったとはいえ、今にして思えばいささか残念に思います。

1985(昭和60)年4月には桜橋が完成し、台東区側の隅田公園と一体化が出来ました。更に近年、親水テラスが順次延長完成し、隅田公園は代表的な下町のプロムナード(散歩道)になりました。

 私たちの郷土の誇り、先人たちが作り、守ってきた「墨堤・隅田公園」をこれからも大切に維持・保存・発展させ、未来の子供たちに残したいものです。

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