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24.小梅通りの怪

 曳舟川通りの隣、50m北側に平行して、道幅が広い(曳舟川通りの兄弟の様な)「小梅通り」(写真1)があります。


言問通りとの交差点から北方向を撮影''

 しかし、この道幅は言問通りとの交差点「小梅通り西」から東上して、向島四丁目と東向島1丁目の町境(旧本所区と向島区の区境)の所まで全長750mの間だけなのです。その先は極端に細い道、まるで行き止まりの様相を呈しています。そのために自動車の通行量は極端に少なく、静かな道路(写真2)なのです。


小梅通りの東端は行き止まりの様。通行する車より駐車する車の方が多い。''

 何故この様な「怪しい道路」になったのでしょうか?
話は大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災後の復興事業計画に遡(さかのぼ)ります。
 復興道路計画では、車社会を視野に入れていたのでしょう、向島地区には南北方向に計画していた国道6号線(現在の水戸街道)に、平行する道幅が広い準幹線道路の建設を計画しました。
 関東大震災が発生する前までは、曳舟川沿道の狭い「四ツ木街道」通称「曳舟通り」が主要道路でした。この計画段階では、曳舟川を埋め立てるという考えは無かった様です。曳舟通りに変わる幅広い「小梅通り(当時は改正道路と称していた)」の建設が計画されました。
 図1は大正15(1926)年大日本帝国陸地測量部発行の「向島」図から抜粋しました。復興建設工事進行中です。



大正15(1926)年大日本帝国陸地測量部発行の「向島」図から抜粋''


 この地図を見ると、国道6号線は三つ目通りを延長して、現在の向島と東向島の境、当時の秋葉神社裏まで開通しています。しかし、「小梅通り」は言問通り及び桜橋通りと共に、未着工のためか記されていません。向島1〜3丁目の区画も整理されていません。言問橋もまだ架かっていないので「竹屋の渡し」や「今戸の渡し」が運行されています。 図2は昭和5(1930)年、内務省が発行した「向島」図の抜粋です。

昭和5(1930)年、内務省が発行した「向島」図の抜粋''


 この地図が発行された年には、向島1〜3丁目の区画整理が終わり、「小梅通り」も幅広い立派な道路として旧本所区内に完成しています。言問橋は昭和3年(1928)に完成し、言問通り・桜橋通りも出来ました。また、国道6号線は同時に着工していた「明治通り」まで延長しています。
 「小梅通り」の延長計画は、昭和12年(1937)に日中戦争が、続いて昭和16年(1941)には太平洋戦争が始まり計画は中断してしまいます。
 終戦後になり、東京都が昭和26年(1951)に川として機能しなくなった曳舟川の埋め立てを決定しました。昭和29年(1954)に埋め立ては着工し、現在の幅広い道路になりました。その結果、小梅通りの延長計画は廃止され、当時のままの状態が今日に至るまで変わっていないのです。
 これが「小梅通りの怪」の実態です。墨田区は昭和61年(1986)8月、「曳舟川通り」「小梅通り」はじめ12の区道の愛称を決定しました。



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