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26.地名の変遷(消えた地名)

⑴旧地名の名残り

 東武亀戸線小村井駅・東あずま駅(開業当初は平井街道駅)の駅名、隅田小学校・第〇寺島小学校・吾嬬○○小学校・小梅小学校等の学校名、請地児童公園・小梅児童公園の公園名、小梅通りの名称は、いずれも、(現在は消えてしまった)昔の地名に由来しています。区内にはこの他にも旧地名が名付けられている民間の施設や公共施設があると思います。
そこで、墨田区北部の地名の変遷を調べてみました。

⑵ここは南葛飾郡請地村だった

江戸から明治になり墨田区北部は葛飾郡の一部で、この辺りは東京府葛飾郡請地村です。村の広さは東西に長く、東端は中井堀(現オリンピックと花王の間の通り)までありました。請地村の他には次の様な村がありました(図1参照)。 (上・下)木下川(きねがわ)・葛西川・小村井・亀戸・大畑・隅田・寺島・須崎・小梅・中之郷・押上村ほか。

本所区明治11年当時の地図''


 明治11年(1877)の15区6郡制(*1)により墨田区南部(北十間川以南)は東京府本所区に、墨田区北部は葛飾郡が分割され、(葛飾区・江戸川区・江東区東部と共に)南葛飾郡になり、請地村は東京府南葛飾郡請地村になりました。

⑶請地村が分断された

 明治22年(1889)の市町村制により東京市が成立、同時に旧古川以西一帯が本所区に編入されました。その結果、請地村は分断され、北西部は東京府東京市本所区向島請地町になりました。同様に古川以西の村はそれぞれ向島須崎町・向島小梅町・向島中之郷町・向島押上町になりました(図1の赤△ 内の地域)。分断された請地村の南東部は葛西川村・小村井村・亀戸村一部等と合併し南葛飾郡吾嬬村に、同時に大畑村と上・下木下川村が合併し大木村になりました。
 大正元年(1912)の町村合併では、吾嬬村と大木村が合併し、東京府南葛飾郡吾嬬町になりました。
 大正12年(1923)の町制により隅田村及び寺島村が南葛飾郡隅田町及び寺島町になりました。

⑷関東大震災後に区画整理

昭和6年(1931)、関東大震災復興事業で本所北部地区の区画整理が行われた地域が、町名改正により新たな町境が出来、「向島1〜3丁目」「小梅1〜3丁目」及び「隅田公園」になりました。
昭和7年(1932)、東京市が35区(*2)になり、墨田区北部の隅田町・寺島町・吾嬬町三町で向島区が成立しました。
 昭和18年(1943)の都制施行により東京府が東京都に改められ、向島請地町は東京都本所区になりました。

⑸東京都墨田区が誕生

 戦後の昭和22年(1947)都制改正が施行されました。東京都は、35区から現在の23区になり、本所区と向島区が合併し墨田区が誕生しました。区名の墨田は墨堤の「墨」と隅田川の「田」から命名されました。
 当時、町内には「向島請地南・元・北」の三町会がありました。現在の町会の境は この当時の町境が踏襲されています。
 図2は昭和36年(1961)住宅協会地図部作成の墨田区全図から当時の向島請地町周辺を抜粋しました。

昭和36年(1961)住宅協会地図部作成の墨田区全図からの向島請地町周辺を抜粋''

⑹現在の地名になった

 昭和39年(1964)、住居表示の変更が行われました。曳舟川通り・東武亀戸線・十間橋通り・北十間川・言問通りに囲まれた地域が東京都墨田区押上になり、向島請地町は向島四丁目と押上一・二丁目に分断されました。
 この住居表示変更により、町会は向島請地南町会が押上一丁目仲町会に、向島請地元町会が押上二丁目町会に、向島請地北町会が向島四丁目北町会へと名を変えて創立し、現在に至っています。
およそ150年余の間に住居の表示が5回も変わっていました。

〈注〉 *1 15区は、麹町・神田・日本橋・京橋・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷・下谷・浅草・本所・深川。六郡は、荏原・南豊島・東多摩・北豊島・南足立・南葛飾郡。
*2 15区に加え、6郡の中から次の20区が新たに生まれた。品川・荏原・目黒・渋谷・淀橋・豊島・滝野川・荒川・向島・城東・蒲田・大森・世田谷・杉並・中野・板橋・王子・足立・葛飾・江戸川区。

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